「みなさん、おはようございます」
ロコが挨拶をして、長机に座っているみんなを見渡す。朝食はみんなで揃って食べるのが教会での決まりだ。
「おはようございます」
まだ目が覚めていなかったりして声はまばらに聞こえるが、応えて挨拶をする。今日の朝食は、パンに目玉焼きとベーコンをのせたものとヨーグルトとサラダ、それと葡萄ジュース。
「あなたの慈しみに感謝して、この食事をいただきます」
食事の挨拶を終えると、みんなが周りと話したりして広場がざわつき始める。
「食べ足りない子はおかわりがあるよ」
親しげに会話をしている様子が多く見られる中、席が空いていなかったのか居心地が悪そうに食事を摂る人物もいる。セスは、入り口側の席で不機嫌そうに食事を摂っていた。なぜなら隣にあのイザベラがいるのだ。初めこそ、あの醜い姿を晒しながらも平然としている彼女のことを毛嫌いしていたが、今は悪い奴ではないことくらいわかる。彼女と接していれば嫌でもわかるのだ。
それでも彼女のことが苦手なのは、自身の奇病を恥じ隠そうともせず、むしろ生きる証とまで思っているその考え方のせいである。そのセスと決して相容れない考え方が理解できないから、傍にいることが苦手なのだ。
かくいうセスがどうしてイザベラの隣で食事を摂っているのか。その理由は、セスの奇病による時間感覚のズレの影響で寝坊してしまったことである。
「あら、セスくん、おはよう」
「…おはよう」
「もうあまり席が空いてないみたいなの、それに挨拶が始まっちゃうわ。隣が空いてるからよかったらここに」
そうして仕方なくイザベラに手招かれて隣に座ったわけである。
「神父様のご飯はおいしいわね〜、毎朝こんなにたくさん作るなんて大変でしょうに」
大袈裟なまでに幸せそうな表情で食事をする彼女を横目に、セスは黙々と朝食を食べる。すっかり賑わっている広間の空気を全身で感じていると、甲高い音が突如響く。ばきんと音のした方を見ると、見覚えのある人物が座っていた。
「あっ!いやだわ、わたしったら…」
クレスが驚いた顔をして持ち手だけになったワイングラスを手に持っている。
「またグラスを割ってしまいましたわ」
あら、と口に手を当てて驚きながらも、馴れた様子でガラスを片づける。近くにいたルイス・ガブリエルも一緒にガラスを片付けている。
「クレスさん、怪我はしてない?」
「大丈夫よ、ありがとうルイスくん」
箒とちりとりを持って駆けつけたロコが散らばったガラスを片付けながら勝手にガラスを片付けていたクレスに危険だからと注意をする。
「またクレスが物を壊してる…」
離れた席からその様子を見ているセスが言葉を零すとイザベラも楽しそうに小さく笑う。
「ふふ。クレスはいつも元気ね」
「そういえば、イザベラはクレスと仲が良かったね。その、彼女はどんな様子なんだ?」
「セスくんったら、おかしなことを聞くのね。ふふ、恥ずかしがり屋なのかしら」
「ち、違う!余計な詮索をするな!ただあいつとは…」
言葉を濁すセスを見て、イザベラが空気を変えるように話を切り出す。
「…そうね!クレスはとても優しくしてくれる素敵な子よ。一緒にお茶もするし、お見舞いもしてくれて、奇病のことなんて気にせずに接してくれるの!」
「そうか…」
それを聞いてセスはクレスを遠目に見て、また目を逸らした。食事を終えると、またロコあなたの慈しみに感謝してこの食事をいただきます。
「感謝のうちにこの食事を終わります。あなたの慈しみを忘れず、全ての人の幸せを祈りながら」
「ご馳走様でした!」
「…ご馳走様でした」
挨拶をした後、イザベラが朝の祈りへ向かうらしく、セスがそれに着いていくと言えばイザベラは少し驚いた顔をしてからもちろんと笑って返事をした。広間から教会へ繋がる廊下を進む。教会へ入ると、すぐ大きなステンドグラスが見える。朝だというのに、教会は蝋燭の光のみで薄暗い。祭壇へ近づいて、祈りを捧げるイザベラを見つめる。彼女の顔の傷を見るたびに、やるせない気持ちになる。目を閉じて祈る彼女にセスが声を掛ける。
「イザベラ、そのままで聞け。僕は、君が悪いやつじゃないから、こうして一緒にいる。君のことは今でも理解ができない。でも、君は美しいままでいるべき存在だったはずだ」
イザベラは目を閉じたまま、セスの言葉を黙って聞いている。
「僕はそう思う、ただそれだけ、言いたかった」
セスはそれだけ告げると、教会を出ていこうとイザベラに背を向けた。
「セスくん」
足音を聞いて、引き止めるようにイザベラが話す。祈りながら、でも真剣な表情を崩して嬉しそうに口角を上げながら彼女は話す。
「私はね、この傷が美しくて大好きよ」
教会の扉に手をかけながら、セスも最後に返事をする。
「そうだな…イザベラは、きれいだ」
___________
リュカは食事を終えると手を合わせるだけの食後の挨拶をして、ある人物に会いに広間を出て廊下を歩く。渡すものを確認していると、向かいから声がして顔を上げる。
「い、イザベラ、なぜここに」
「リュカさん、お散歩かしら?私もご一緒しても…」
リュカは歩み寄ってくるイザベラを交わして廊下を突っ切る。
「ごめん、急いでるんだ」
「そ、そんな!まってください~!」
リュカが駆け足で廊下を駆け抜けてもイザベラは粘って追いかけてくる。リュカは知っていた、イザベラが根気強い人間であることを。それこそ、今以上に彼女のことを嫌悪していたときにめげずに交流を図ってきていたのをよく覚えている。リュカの中にある突っかかりは、そう簡単にとれなかったのだが、彼女の頑張りで前よりはちゃんと話ができるようになった。このままでは埒があかないと、リュカは諦めて立ち止まる。イザベラは突然のことに、前を歩いていたリュカにぶつかる。
「ああっ!リュカさんごめんなさい」
謝られると調子が狂ってしまい、言葉を詰まらせる。
「あー…その、僕もごめん」
煮え切らない返事をしては、気まずそうに視線を逸らす。
「イザベラは、僕なんかにも優しくしてくれるんだね」
「ええ、誰かに優しくするのに理由なんていらないわ」
「あー、あはは。君らしいね」
皮肉めいた言葉も気に留めず受け流され苦笑いしかできずにいる。
「僕はこれから用事があって、だから、お散歩なら別の人にでもお願いしたらどうかな」
「あら!そうだったのね、知らなくて…それなら、また今度お時間があるときにリュカさんとお散歩したいわ!」
「あ、ああ、そう…君の好きにすればいいよ」
「!」
「本当?嬉しいわ〜!またお声かけするわね!」
「うん、じゃあね」
イザベラとは、自分の過去がなければきっと嫌悪することなく関われていただろうと思う。もしもの話をしても現状は変わらないのだから、すぐ忘れてしまうけど。嬉しそうにこちらを見てくるイザベラの視線を気にしながら、そそくさとリュカは目的の場所へ向かう。
「ミラちゃん、おまたせ」
教会にある倉庫前で会う約束していたミラと合流する。人目を気にしているのかキョロキョロとしながらミラが話す。
「リュカ、その…アレはあるか」
「今日も持ってきたよ…そんな危ないものみたいな言い方しなくても」
リュカはポケットの中から煙草を取り出してミラに渡す。それを見て、ミラの気難しい顔が心なしか明るくなる。さっと隠すようにそれを受け取れば、煙草を吸おうと喫煙所に向かう。ミラは人に隠しているが、酒とタバコが大好きだ。以前ミラが煙草を吸っている場面に出くわし、互いに喫煙者だとわかると、こうしてこっそり煙草をお裾分けしている。子供に吸わせていることを知られたら白い目で見られるだろうが、なにより自身がヘビースモーカーであるし、やめろという必要も感じなかった。
「…けほっ」
ミラが煙を吸い込んで咳き込む。リュカは咽せながらも吸うミラの姿をニコニコと見守る。
「子供なんだから無理しなくていいのに」
「うるさいわね。好きで吸ってるんだからいいでしょ」
怒りっぽい態度は常であり、低い身長でリュカのことを睨み上げる。対してリュカは悠々と白い息を吐きながら、睨まれて困ったように笑う。
「人のこと見下してられるのも今のうちよ」
「はいはい、あの約束ね」
「ほんとにわかってるのかしら」
互いに軽口を叩き、深入りしないこの空間は人付き合いが苦手なリュカにとっては過ごしやすかった。灰を落として喫煙所を出ると、リュカを呼ぶ声が聞こえてくる。
「リュカくん〜もしよかったら手伝ってくれないかな?」
ルイスが小走りでこちらに向かってくるが、ミラの姿を見て、あっと声をあげる。
「一緒だったんだね、今大丈夫だった?」
「もう用は済んだから連れて行っていいぞ」
用事は終わったから大丈夫だと伝える前にミラが声を上げる。そのままじゃあな、と片手をあげて自分の部屋に戻っていく。リュカも「またね」と軽い返事をして、ルイスに要件を聞く。
「どうしたの」
「その、神父様に書類を図書館に片付けるように言われたんだけど、思ったより多くて僕だけじゃ時間がかかりそうで…」
「またいつものお人好し?困るなら断ればいいのに」
「ちがうよ、僕が言い出したんだ。神父様をお茶に誘おうと思ったら、忙しそうにしていたから…」
「…なんでも引き受ける癖、ほどほどにしたらどう?」
ルイスの行動に呆れたように返事をして、リュカが歩き始める。
「ちょ、ちょっと…!ごめん、置いていかないでほしいな」
弱々しい声でリュカの背中を引き止める。それを聞いてリュカが振り向く。
「置いていくも何も、本は広間にあるんでしょ」
「リュ、リュカくん!」
「まあ、癪だけれどあの人が無茶なお願いするようにも思えない。いいよ、ちょうど時間あるし」
「ありがとう、君なら手を貸してくれると思ってたんだ」
リュカにしては珍しい親切な態度を取るルイスとは、友達のような関係だ。居心地がいいという理由でよく一緒にいる。広間に行くと、確かに一人では持ちきれない大量の本が机に積み上げられていた。
リュカも男手とはいえ、比較的華奢な体格で分担して本を持ってみても重く手が痺れる。しかし、年上である意地で冷静に努めた。本のバランスをとりながら、二人で図書館に向かう。幸い、図書館はよく出入りしていたため、困ることなく辿り着けそうだ。
「図書館…最近行けてないね」
「そういえば確かに。あそこは静かで人が少ないし落ち着く」
リュカがそう返事をすると、足音が一つ消える。立ち止まったルイスを見ると何か言いたげにリュカを見ていた。しかし、すぐになんでもない顔をして進もうとし始める。
「言いたいことあるならいいなよ」
リュカが人付き合いが苦手な理由に、はっきりとものを言ってしまう部分がある。それで人を傷つけたり嫌われたりするからだ。しかし、逆にルイスは他人に遠慮しがちで優先してしまう。彼は人望が厚く、誰からも好かれる好青年だが、自分のことを後回しにしてしまう。それがリュカは嫌だった。
「えっと、その…僕はあんまり静かなところは苦手だから、一人じゃ行けないんだよね」
「意外、そうだったんだ」
確かに思い返せば一人でいるところを見たことがないなと思う。
「だから、リュカくんさえ良ければ図書館や他にも、僕が行きたい場所に着いてきて欲しいなって…」
「そんなこと?」
「そ、そんなこと…だよ」
「うん、いいよ」
あっさりとした返事に、拍子抜けしながらも嬉しそうに感謝を述べる。
「読みたい本でもあったの」
「うん、その、最近話す子がカーネリアンで、病気について知っておきたくなったんだ」
カーネリアン、奇病患者のことを聞くと一瞬息が詰まる。図書館に出入りしていたのは自分も知識を身につけるためだった。奇病の発端、感染者の扱いなど、自分が想像していたものよりもどれも酷いものだった。無知は、怖い。後ろめたい過去を思い出して現実から離れていく脳を引き戻す。
「僕も知りたいことはたくさんあるから、一緒に探すよ」
「うん!ありがとう」
へへ、と緩んだ笑顔を向けてくる。ルイスが「そういえば今手に持っている本は、どんな内容なんだろう」とタイトルを見るために体を捩る。順番に見ていくと、料理から小さい子むけの絵本などさまざまだ。その途中で分厚い本に挟まって小さな手帳のような物が見え、よく見ようと目を凝らす。
「ルイス!」
しかし、注意がそれてしまい、持っていた本がぐらつき始め、上の方から本が落ちていく。慌てて抱えるも間に合いそうになく、落ちてくる本を想像して目を瞑る。
「…大丈夫か」
後ろから伸びてくる腕をたどって頭上を見れば、ジェファーソンの姿があった。
「ジェフさん!」
リュカもルイスも驚いた顔をしてジェフを見る。
「御前はどうして無茶をするんだ」
それだけ言うと軽々と二人の大量の本を奪い取り、颯爽と運んでいく。呆気に取られていたルイスが慌てて追いかける。
「ま、まって、僕も持つよ」
「…なら安心して運べる量だけにしておけ」
ルイスとリュカが本を取れるように少ししゃがみこむ。
「リュカも無理をするな、重いものは得意じゃないだろう」
「わ、わかった。ありがとう」
本を抱え直すと、ジェフの後ろを二人でついていく。普段から無表情な彼の考えは読み取りにくいが、リュカにとって誤解されやすいが本当は良い人という印象である。図書館に無事着くと、机に本を並べて一息つく。
「ジェフさん、ありがとう」
「ありがとうございます」
二人でお辞儀をして礼を言う。
「気にするな、丁度用があったんだ」
そう言うと、腕にさげていた紙袋をリュカに渡す。
「僕に?」
紙袋を覗くと、美味しそうな手作りのタルトタタンが入っていた。
「えっ、これ…いいの?」
「ああ、茶会のための菓子を作る時に、タルトタタンが好きだと言っていたのを思い出してついでに作ったんだ」
「ありがとう、とても嬉しい」
「それはよかった。俺はこれで」
そう言ってジェフは用を済ませると図書館からすぐに出ていく。リュカは背中を見送りながら、隣で話を聞いていたルイスに話しかける。
「ルイス、この後時間ある?」
「大丈夫だよ、どうしたの」
「よかったら一緒に食べない?その、一人で食べるより二人の方がいいし」
「もちろん!」
横から一緒に紙袋を覗き込んでは、楽しみだと話しながら食器の準備をしにキッチンに向かった。
___________
リュカたちと別れた後に、ミラは部屋に戻っていた。同室のジェフは出かけているようで、もぬけのからであった。部屋の扉をノックする音が聞こえる。
「ミラさん、いらっしゃいますか」
この声はパトリシアだ。きっと回診に来たのだろう。扉を開けると意外にも客はパトリシア一人ではなかった。
「ラインハートまで、どうしたんだ」
「僕は巻き込まれただけだ」
渋い顔をしながらパトリシアの後ろから顔を出す。せっかく来たんだからと、部屋に迎え入れて椅子に座らせる。冷蔵庫に置いている酒を見られないように、お茶を取り客人に出す。ミラの身長では足が地につかない高さの椅子によじ登るように座る。ミラの高さに合った椅子もあるのだが、子供に見られたくないという意地である。
「お加減はいかがですか」
「特に変わりはない」
パトリシアが何かに気づいたようにミラの顔を見る。
「…今日は何をしてましたか?」
「え?」
「朝食を食べた後はなにも…」
「また煙草吸ってましたね?」
匂いで気づかれたのだ、驚き思わず一歩下がる。吸ってからすぐ会わないようにしようと決めた。ラインハートは、二人を呆れたように見ている。この二人の口論は教会で見慣れた光景なのだ。
「だから前にも言ったけど、私は健康だ」
「健康に影響を及ぼす前に未然に防ぐことも医者の役目です」
「私は死ぬ前に好きなだけ好きなことをしたいだけだ」
「わかっています」
「なら…」
「これはただ、心配なだけです。私はもう正式な医者ではありませんから」
「お節介なやつめ」
ミラが、調子が狂ったのを誤魔化そうとお茶を飲む。ラインハートはあっさりと口論を終えた二人に驚く。
「へえ、知らない間に丸くなったね」
「パトリシアがようやく分かってくれたんだ」
ひと間を開けて、ラインハートが口を開く。
「ミラの気持ちもわかるよ」
不満そうにお茶を飲むパトリシアを見てはパトリシアとの出会いを思い出して笑う。彼女は、教会に来てからカーネリアンたちを診察して回っていた。一人一人、自分の患者として親身に接し、研究を進めている。もちろん、善意からの行動に感謝されていたが、自分の奇病を嫌悪し、知られたくない患者にとっては藪蛇にしかならなかった。なにより、教会の患者達は治療することを諦めている。
「キミは、正しいことをしているんだけどね」
「医者は、奇病の前では無力です」
パトリシアは淡々と話す。からっとした性格の彼女は、リベレ病の現状をどう思っているんだろうか。
「神の機嫌で苦しむだなんて、納得いかない」
「…そうか」
敬虔な信者である彼は何も言えずに、沈黙を誤魔化そうとお茶を飲んだ。
「きっと、君は神様を厭悪しているんだね」
「そうなんでしょうか」
パトリシアに問うも、自分のことなのに掴みきれない様子だ。
「僕は故郷の小さな教会で育ったんだ。だから小さい頃から神様を信仰している。でも今こうやって教会にいるからといって教徒になれとも思わないよ。君みたいな人がいても当然だ」
「信仰というものが私にはわかりません。私が神を信じていない不心得者というのもありますが、なぜ祈るのでしょう」
「一概には言えないけれど、心の拠り所や生きていく術を得るためだろうね。死後の世界と輪廻転生を説く神様は、僕らに希望と安心を与えてくれるから」
それを聞いたパトリシアは、無力感に打ちひしがれていた。表情はさほど変わってはいないが、ラインハートの言葉を聞いて真っ先に思ってしまったのだ。
「それは、私たち医者と違うのでしょうか」
患者の拠り所となり、治療という希望を与える医者と、信仰は何ら変わらないのではないか。しかし、奇病の前ではどのような研究も徒労に帰すだけであった。
「知っています。医者は神にはなれませんから」
どこか人ごとのような彼女はいつも冷徹に物事を見て考え飲み込んでいる。普通であれば、絶望しているであろう現実を静かに正しく理解している。
「神になんてならなくていいだろ」
ミラが話の脱線を回避しようと口を挟む。
「それに、お前は向いてない」
「ミラ」
「それはどうも」
包み隠さず発言するミラにラインハートが釘を刺す。効果がないことは分かっているが、自分の干渉できる隙を見つけなければこの二人のペースに巻き込まれてしまう。
「そういえば、さっきは静かに話を聞いてたね」
「うるさい、そういう時だってあっていいだろ」
反発してから言葉を続ける。
「小さい村の知り合いを思い出してたんだ」
「君も遠くから来たのか」
小さいのに苦労していたんだなという言葉は塞いだ。
「私は忙しい身だったから全く会うことはなかったけどな」
「へえ、そうなのか。遠い親戚みたいなもの?」
「そうだろうな。家族から話を聞いただけだから、存在が幻みたいなものだ」
「君が覚えているなら幻じゃないよ」
「へえ、誰かも分からないのにか?」
「いるかもしれないと思われるだけでも、その人は嬉しいんじゃないかな」
「そんなのでいいのか」
「僕はね。その人がどうかは分からないけれど」
「親身なやつだな」
___________
廊下にひとつの車椅子があった。ガーラントはジェファーソンとの約束のために中庭へ向かおうとしたが、道に迷ってしまい廊下を右往左往していた。
「困ったな、待たせるわけにはいかないし」
あたりを見渡していると声をかけられる。
「ガーラントさん、どうかしましたか?」
声の主はクレスだ。ちょうど通りかかったようで、心配そうにこちらを見ている。彼女は良き話し相手として仲がいい。昔話をすると小気味良く相槌を打ってくれる彼女を見るとこちらまで明るい気分になるというものだ。
「中庭に行きたいのですが、まだ教会内を把握できていないもので、お恥ずかしながら迷ってしまいまして」
「ああ!まかせてください!」
ふいにガーラントの腕と足を掴むと、空中に担ぎあげた。悠々としたその様子は彼女の怪力が顕著に現れている。
「!?」
「ええと中庭はですね〜…こっちです!」
驚いているガーラントを他所にクレスは中庭へと歩いていく。通行人の子供たちに野次を飛ばされたりしながらもクレスは退屈しないようにお話をしながらガーラントを案内…運んだ。初めは驚いていたものの、彼女の突飛な行動に思わず笑いだしてしまった。純粋な楽しいという気持ちを久々に感じ、今日の日記に書きとめようと決めた。
「クレスさんは、優しくて強い素敵な女性ですね」
「あら、嬉しいです〜っ!ガーラントさんも、昔は大変お強くて逞しい方でしたでしょう?素敵だわ〜っ」
「そんな、今は丸くなって自慢できることも何もありませんよ」
子供のように無邪気な話をするクレスを見て照れくさいと笑いながらお喋りをする。
「着きました!ここです」
クレスは恐る恐るといった様子でガーラントを降ろす。力は便利なものだが、扱いには十分気をつけなければ触れたものかすぐ壊れてしまう。
「ありがとうございました、あの、もしよろしければなのですが…本日の出来事を日記に書き留めてもよろしいでしょうか」
「ええ、ええ!もちろん!嬉しいですわ」
クレスは綻ぶ頬を落とさないように手を当てて嬉しそうに跳ねる。
「ガーラントさん、私からもお願いしてもいいかしら?」
「私に出来ることなら、もちろんです」
「ガーラントさんの中の、彼のことなんだけれど…」
心の奥が冷える感覚がした。彼女は、彼に会ったのだ。しかし、なにも、何も覚えていない。自分の身体であるはずなのに自分では何もわからない。ガーラントにとって、他者との関係を築くための記憶が無いことはとても恐ろしいものだった。
「彼は何か言っていましたか」
「それが、あまりお話ができるようじゃなかったの。でもね、私いつか彼とお話がしてみたくて…それで、彼に名前があるのなら教えて欲しいの」
「名前…残念だけれど、私は彼とお話が出来ないもので、名前を知らないんです」
「そうなのね…!会った時にどうしましょう…」
「そうだ、名前をつけてもいいのではないでしょうか」
「それはやめておくわ。名前を奪うようなことをしてはいけないもの」
そう困ったように優しく笑うクレスを見て、ガーラントが彼に対する気持ちと全く異なっているのを感じた。
ガーラントにとっては、彼は自身の脅威であり、おぞましく理解のできないもの。正に世で謳われている神罰そのものだと思っている。人ではなく、凶暴な化け物という認識をしていた。だが、そんな彼にも名前があり、情があるとするのならば、一体彼は何を思っているのか。しかし、いずれ、自分を食い尽くす存在に対する畏怖が消えることはなかった。
「もし彼と話せるのなら、彼がどんな人物なのか知りたいものです」
「ええ、わたしも。
もし会うことがあったら、ガーラントさんにもお伝えしますわ」
___________
ガーラントはクレスに感謝を述べて別れると、中庭に向かった。
「ガーラントさん」
中庭に入るとジェファーソンが駆け寄って車椅子を押す。
「ここに来るのが初めてで迷ってしまってね」
「いえ、俺も今来たところです」
「それにしても、いい場所だね」
教会内はやけに暗い。中庭は外の日光を浴びることが出来る唯一の場所だろう。風通しが良く、緑に囲まれたお茶会にぴったりの場所だ。草木と花を育てているようだが、伸びすぎている気もする。そろそろ手入れをしないと、見栄えにも影響するのではないか。
「今日はタルトタタンを作ったんです」
箱からタルトタタンを出すと、美味しそうだとガーラントが穏やかに笑う。切り分けてお茶を用意して、あとはチェス盤を机に広げると準備完了だ。駒を置きながら話をするのが二人のお茶会だ。
「今日はどんな話をしましょうか」
「████年の海上戦のこと覚えてらっしゃいますか」
「…いえ、申し訳ないけれど思い出せない。記憶力には自信があるのですが…」
「昔のことですから、仕方ありませんよ。あの話はよく先輩達から聞いていました」
「有名な話なのですか?」
「そうですね。教育として語り継がれているようなものです。見事な勝利を収めましたが、あの年でも特に負傷者が多かった戦いとしても知られていますから」
「あの頃はそれが日常茶飯事でしたから、有名な話と言われると不思議なものですね」
「本当に。今は、戦争どころではありませんが」
「倒すことの出来ない敵ですからね」
「あの頃からいろいろと変わりましたね。これが良い方向であれば良かったものを」
「私も現役の時よりも随分と警戒心がなくなってしまいましたね」
自嘲しながら最後の駒を置く。
「チェックメイト、ですね」
本当は、覚えている。いや、昨日のことのように思い出すことが出来るが、思い出したくないものとして普段は忘れている。あの時代は失うものが多すぎた。もう何も失うことなく穏やかに暮らしたい、だが、きっと彼は。
「そういえば、ルイスさん」
彼の目を見て穏やかに笑う。
「君たちは、僕たちが救済された後はどうなるのかな」
少し、目を見開く。深入りした質問に言い淀んでいたが、結果的に話してはくれないようだ。
「今と、昔の話をしましょう。ただひたすらに、そうしていたい気分です」
「そうだね、そうだ。目の前にいる君じゃない君を見ているなんて失礼だった。未来の話をしても仕方がないね」
「いいえ、ただ俺はこうして話を聞いていたいだけです」
きょとんとして驚いてしまう。彼はたまに少年のような表情を見せる。
「面白い、君もそういうことを言うんだね。じゃあ、幸せな家族の昔話でも聞いてくれるかい」
___________
夕食後の講堂には、ぽつりぽつりと人が集まっている。彼の演奏を聞きに集まっているのだ。通路を歩き、聴衆へ挨拶して回っていると見知った顔があり、おもわず声が出てしまった。
「意外ですか、私がいるのは」
そう聞きながらも特にどう思われているかなど気にしていない顔でパトリシアが話す。
「失礼したね、でも驚いた、興味がないものかと思っていたから」
「その興味だけでここに来ました。私には音楽の良さが理解できませんから」
「僕はどんな人でも歓迎するよ。飽きるまでここに居たらいい」
「そうします」
彼が着席するのを眺めている。淡白な彼女の心に高揚感は現れないが、微かに期待はしていた。自分に変化があればと、そう願っていた。
演奏が始まる。広い講堂には不釣り合いな小さなピアノだと思った。
しかし、その音色はおそらく教会に響き渡り、広間で談笑している彼らの耳にも届いていることだろう。教会は聖歌隊の合唱を行うため、反響しやすい建物なのだろう。そう機械的な考えをする。
しかし、不思議だと思う。他のことを考えようとしても、音楽に支配されてしまうから。理解をすることは、まだできそうにないが音楽の持つちからに触れることができた気がした。もし、これが理解することができたのならば、自分の存在する理由も
アルペジオ、そして終止符。
拍手が響く中、自分だけ置いていかれる。余韻、感傷。知っていても理解ができないものを皆が持ち合わせている。期待は当たっていた、でもまだからっぽのままだ。席から立ち上がれない、まだ期待しているから。何も言えずに眼差しを送る。振り返った彼は驚いた顔をして、そっと頷くと楽譜を捲る音がした。
___________
キッチンから焼き菓子の香りがする。
「ミラさん…!み、見てくださいっ」
オーブンから焼きたてのクッキーが並んでいるプレートを取り出し、驚きながらも嬉しそうな顔をしているエーリと、それを見守るミラが居た。
「上手くできてる、上達してきたじゃない」
「やったぁ」
ルンルンとお皿にクッキーを並べる。菓子作りを教えてくれと頼まれたが、まずは作りやすいクッキーから段々と難易度を上げて教えていこうというミラの目論見である。エーリの好物はケーキなので、初めは駄々を捏ねられたが、美味いものを食えるようになるには下積みが必要だと説得をした。
「食べたいのなら私が作るのに、自分で作りたいなんてどうしたの」
「いつも作ってもらってばかりじゃ、申し訳ないから…」
「そんなの気にしないでいいわよ」
「う、ちがう!ぼくが、作りたかった。いつものお返しを、したかっただけ!」
ミトンを急いで外して慌てた様子でキッチンを出ていくと、しばらく戻ってこないので心配になっていたが、無事にがさごそと物音をたてながら帰ってきた。
物音の正体はエーリを見れば一目瞭然であった。
「これ、綺麗なお花でしょ」
花束を抱えて帰ってきたのだ。エーリは、自分よりも小さい身体で、とても頼りになるミラを姉のように慕っている。
「え、ええ。とても綺麗。でもどうしたのよ。そんなに大きな花」
「神父さまにお願いして買ってもらったんだ」
神父様はそんな事までしてくれるのか。その大きな花を小さな身体で抱える。持ちにくくて仕方が無いが、その花束のある花をじーっと見つめている。
「気に入ってくれましたか?」
「……うん」
「よかった!いつも僕が知らないこと教えてくれたり、手伝ってくれるから、お返し!」
「お返しの花ね…」
ミラが気になっているのはカーネーションの花だ。彼女にとっては、カーネーションは思い入れが深い花だ。
「ありがとう、でも一旦花花束を取ってくれない?前が見えないのよ」
「あっ!ごめんなさい!」
___________
夜、講堂から歌声が聞こえる。その声に釣られてエーリは行動の扉を開ける。するとそこではセスが一人で聖歌を歌っていた。息を潜めてその様子を見ていると、突然はっとしてセスが歌うのをやめる。どうしたのかと思うと、時計を見て青ざめているのが見える。どうやら彼の時間感覚のずれでこんな夜遅くまで歌っていたようだ。
「…エーリ、いたのか。僕はどのくらい歌っていた?」
「5時間くらいかな」
それを聞くとセスは項垂れる。決して彼のせいではないというのに、自分のミスをどうにも許せない性格の彼は毎度毎度この症状に苦しめられている。
「でも、とてもきれいだったよ。じょうずなんだね」
「まあ、ずっと聖歌隊にいたからね」
熱烈なエーリの視線に居た堪れなく、少し枯れた喉を押さえながら視線を逸らす。
「いつも練習しているの?」
「習慣みたいなものだよ」
「ぼくも歌ってみたい」
「今の歌知ってるのか。聖歌隊で練習した歌だ」
「ずっときいてたから、たぶん覚えた」
ずっと聞いていたという言葉に驚きながらも、自信満々なその姿勢に顔が綻ぶ。
「物好きだね、君は」
歌が載っている本をエーリに渡すと歌い出すのを待つ。聴いているだけで歌えるなんて、よっぽど自信があるのだろうか。だが、エーリの歌は世辞にも上手いと言えるものではなく思わず眉を顰めてしまう。自信があるのではなく、好奇心がある無邪気なやつなのだと学んだ。
「ちょっといい?」
セスが歌を止めると、次第に歌がフェードアウトしていく。
「僕が歌った後に真似をして歌ってみて」
「うん!」
セスの歌に続いてエーリが歌い出すと、先ほどよりは正確な音程になった。リズム感は悪くないから、練習をすればもっとよくなっていくだろうと、昔の小さな子供たちを思い出しながら考える。エーリ本人も変化に気づいたようで、驚いた顔でセスを見て歌う。
「下手だと思ったけど、上達が早いタイプだね。羨ましい」
「へ、へた…」
「あ、ええと。今のエーリは、その、じょうずだから」
「本当!?」
素直に喜ぶエーリは、少し躊躇いを見せながらもセスに話す。
「いつもクラークさんには、難しい言葉やお勉強を教えてもらえて、とても嬉しいです」
「それならよかった」
なにやら続きを話したそうに口をパクパクしているエーリを見て、思わず笑ってしまう。褒められて嬉しいのか笑顔で口を開ける姿が子供っぽくて仕方ない。
「あの、もしもよければ、お歌を教えてくれませんか」
ひとことひとことを丹念に話すそれは拙いが、とても愛らしいものだ。
「今日みたいにここにいるから、おいでよ。そしたら教えてあげる」
「やった!ありがとう、クラークさん!」
ぺこぺこと頭を下げてはへらへらとした表情をする。セスよりも背が高くて、大人みたいな見た目なのによっぽど子供らしい。そんな子供のような彼に会う約束をして、少しだけ楽しみだと胸が踊った。
___________
ラインハートが部屋に戻ると、小さな黄色い花を指先でつまんでクルクルと回しているシルバールインが居た。
「何してるんだ」
「ああ、おかえり。明日、教会で葬儀があるらしいよ」
ラインハートは、淡々と他人の不幸を話す彼を見て、やはりコイツとは分かり合えないなと思った。
「君は見たくないと言って一度も行ってくれないけど」
「誰だって、見なくていいのなら見たくないものだろう」
「そうかな?」
遊んでいた花をラインハートに差し出す。突飛な行動に顔を険しくしながら問う。
「一体なんなんだ」
「これ、なんのお花だと思う?」
「なんの、って…」
脈略のない会話に頭を抱えそうになる。何が言いたいのか分からない。
「葬儀と、花」
そう言うと、一向に受け取る気のないラインハートの胸ポケットに花を挿す。案の定最悪な奴だと確信して花を掴むとシルバーに押し付ける。
「とんだ悪趣味だな。献花のつもりか?」
「ああ、ごめんよ。嘘だから大きな花束を持っている子が居てね。花を落としたから声をかけたんだけど、気づかずそのまま行ってしまったんだ。その花だよ」
ラインハートは大きなため息をついて椅子に腰かけ足を組む。話すも何も、この部屋にいれば嫌でも顔を合わせなければならないのが不快に感じるほど、苦手なタイプの人間だ。
「葬儀の後は、教会の裏にお墓を建てて埋めるらしいんだ、素敵だね」
シルバーの目を見ないように窓の外を睨みつけるラインハートに一方的に話をする。
「燃えて消えてしまうよりも、姿を残したまま棺桶に入れられて埋める方が、素敵だと思わないかい。君の綺麗な顔も、美しいままで残せる」
「黙っていれば、何なんださっきから」
「ふふ、君はわかりやすいね。少しの挑発でもこっちを見てくれる」
「軍人の拳、食らいたいか?」
「君にならいいよ。なんて言ったって僕のパートナーなんだからさ」
ただのペアだろうと言いたい言葉を飲み込んだが、身の毛のよだつ感覚に思わず声が出る。
「その言い回しはどうにかならないのか、僕のことは口説こうが、口説かまいが殺せるんだろ」
「冷たいな、本心なのに」
「はあ」
呆れた声しか出ない。反応するのにも疲れてきて静かになる。肘を着いて、少し離れた本棚を見つめる。共同のため、互いの趣味の本が不規則に並んでいる。
「毎朝僕らが葡萄ジュースを飲むのが何故か知っているかい」
突然切り替わった話に視線だけ声の方へ動かす。
「神様の血を模した葡萄を飲むのが決まりだからだろう」
「それも正解だ。末期の水って聞いた事あるかい。神の元へ行くために、神の血で身を清らかにするんだ」
「この前本で読んで知ったんだけど、面白い話だと思って」
やけにへらへらとして話すシルバールインを見て腹を立てながら、その話を聞いて確かに思うところはあった。その儀式に使われるものを毎朝摂取しているというのは、少し不気味だ。
「死ぬ為の準備を毎日しながら生きてるってことでしょ」
また腹の読めない笑顔をしては、シルバールインがそう話す。ただ漠然と、常に死と共にあることを諭されているような気がした。